「何だかんだで何とかなる」

99期の牧です。
私の豊浦在学中は皆様のような誇れるキラキラエピソードはありません。
弓道部に所属しておりましたが中退して帰宅部となり自堕落な高校生活を送っておりました。
同期の野球部が春の選抜甲子園に出場し、阪神ファンの私にとって憧れの地である甲子園の地を初めて踏ませて頂き大興奮したのが良き思い出となりました。
阪神ファンなので甲子園観戦したいと
大学は関西圏を特にちゃんと調べもせず受験して、合格したのが所謂Fラン大学でその大学の立地がまさかのギリギリ大阪ってだけで奈良と大阪の境目の山の麓という立地で、何も考えずに新大阪の不動産屋で部屋探ししてた結果、通学時間自転車で40分で帰りは生駒山の麓を登るような立地の枚岡駅近辺に居を構え何の縁か住所が豊浦町と豊浦の縁に恵まれました。
大学時代も自堕落な生活を送りながらも
就職活動の時期になり活動を始めると、就職氷河期世代ど真ん中の洗礼を浴びまくり大卒就職率55.1%の大底は伊達じゃなかったみたいで、織田裕二さん主演の「就職戦線異状なし」を観て就活めちゃ楽しそうって思ってた子供時代の己の幻想は木っ端微塵へ。
私の世代くらいからネットでエントリーシート送っての就活の流れが始まり、初めて自前のパソコンを大阪の日本橋まで買いに行ってエントリーしまくったけど落とされまくりで
「自分は社会から必要とされてないんやな〜」と虚無感に震えた20代前半。
そんな中、就職募集とは別途に1000万出資するから学生だけで事業しませんか?という
学生ベンチャーの募集に目が止まりました。時代はまさにベンチャーブーム渦中で現在の「令和の虎」の本家本元の「マネーの虎」をやってた時代。
やりたい事も特に無く、漠然と成り上がりたい!金持ちになりたい!の流れで独立起業したいというベンチャー思考だけが肥大化してたので面白そうと応募。
関西圏の色んな大学の学生がエントリーしててその中でも私が1番底辺大学で他は有名校がずらり。
学生だけで「立ち飲み屋」をする事になり真夏の暑い時期に物件探しで駆けずり回った。
その結果不動産屋巡りも板について、不動産屋さんに立ち寄ると無料で冷たい飲み物が出てくるという貧乏生活のマル秘テクニックを会得する事になる。
集まった学生の中で残ったのが4人で難波で立ち飲み屋を開店。
大学4年というまだ授業もありながら商売と内定先の研修と寝食を忘れ働いてたら体に異変が・・・
病院に行くと所謂「栄養失調」だったみたいで、飽食の日本でコレステロール値が足らないと言われ医者から「アフガン難民か!」と突っ込まれ入院で離脱。
学生ベンチャーの立ち飲み屋の方が面白く
頂いてた内定を12月に辞退して人事の方にこっ酷く怒られる。就職先も無くなり学生ベンチャーからも離脱して行く宛も無くなり放心状態の病み上がりの中、研修でお世話になった天神橋商店街一丁目にある立ち飲み屋さんに拾われ、そこの系列で働いてた店長さんが給料18万位だったからその位かな〜?と思ってたらそこのオーナーさん(以後師匠)から部屋決めてきたからと店から徒歩1分の1階がスナックの雑居ビルに居を構える事に(私以外住民はみんな中国人)鍵をもらったあとに「給料10万な」と地獄の宣告を受ける。
社会保険?雇用保険?福利厚生?何それ美味しいの?の世界で手渡し10万生活のスタート。
毎月電気止まるのは当たり前。家賃は決まった金額「売上を上げるにはあとは分かるな?」(師匠)
と言う事で、店を遊ばせるなとの事で1番酷い時はモーニングやってランチやって夜の立ち飲み営業という三毛作やって2ヶ月で再びダウン。今度は20代前半で十二指腸潰瘍の洗礼。
金は無く勤務体系もブラックそのものだったけど、お客様との会話、ハッタリ、接客技術を学び、当時提供してたのが冷食がほとんどだったので、今日のおすすめも何もと言う事で「売る物無かったら自分を売ればええ」という現在のカウンター商売の原型を師匠のとこのブラック立ち飲み修行時代に身に付けて、2年経った頃に「ここに居ても先は無い」という事にようやく気づき奴隷労働から卒業して何も当ては無いが下関に24歳で帰郷。
帰ってきてしばらくニートでプラプラ生活しながら、市内の飲食店を偵察する生活をしばらく過ごし「いらっしゃませ」も「ありがとうございました」もお見送りも無い殿様商売してる店が多く愕然。
そんな中、親族の紹介で魚の勉強で水産会社の社長さんを紹介して頂くも魚屋さんは空きが無いとの事で別業態の市場の回転寿司で3年間お世話になってたある日・・・
社長から「焼き鳥屋やらんか?」と言われ0.5秒考え脊髄反射で「やります!」
ここから現在のとり万。の物語が始まる。
前の経営者の方が高齢で辞めると言う事で常連だった社長のとこに権利買ってくれと話が来て、最初の面接の時に私が居酒屋やりたいので修行させて下さいと言ってたの思い出して下さり、私に話を振って下さったという流れ。
権利の買取と内装費と仕入れ備品購入で200万くらいの初期費用だったので失敗しても車1台事故って廃車にしたと思えばええかと27歳で起業。
前任者から何でも使って良いと言われ金も無いので看板変えるのも金掛かるからそのままでええか?と思いながらも2代目でも無いので「とり万」→「とり万。」に改名して初代とり万。をスタート。
従業員も集まらず、嫌がる母に頼み込んで手伝って頂き、行きつけのBARのママさんに紹介して頂きスタッフ2名加入して無事に船出。
回転寿司の社長のお友達の皆さんにも助けて頂き黒字発進も翌年にまさかのリーマンショック襲来!
その後も震災や100年に1度の不況、コロナ禍襲来等、さらに現在は社会の授業で習った時にそんな事起こるわけねーやん?と思ってた、スタグフレーション不況真っ只中。
とり万。初めて19年の間に何回「まさか」が来るのよと「まさか」が来るのが当たり前の感覚になりました。
店を始めて、お客様との会話の中で
「どこの高校なの?」と聞かれるケースが多くて下関市民にとって最終学歴の大学とかは関係無くてどこの高校出たかでヒエラルキーみたいなのが決まってるみたいで驚いた。
その流れから豊浦の何期?と聞かれるので広告宣伝出した時に自身のプロフィールに豊浦99期と書いて載せてたのを店にも貼ってたら、色んな先輩方と繋がり、トヨラの繋がり結束ほぼほぼ宗教なのを知る。
2007年に店を始めてからしばらくして友人の勧めでブログを開設し毎日投稿が始まる。
ここでも豊浦の何期の方がご来店などのエピソードトークを書いてるとそれを見た方が反応して下さったり、その後Twitterが登場してご近所の中之町のガリバー企業の先輩からiPhoneとTwitterを教えて頂き私もつぶやき始めるとTwitter内で全国のトヨラOB OGが繋がり#toyoraまで生まれる。
その年の同窓会総会ではTwitterで繋がった全国のトヨラーが集いめちゃ盛り上がりました。
その後もfacebookやInstagramなどでもトヨラーの輪が拡がり遠く離れた方々も身近な存在に(トヨラとSNSの親和性は大)
現役時代には特に豊高について思い入れも思い出もあんまり無かった最下層の私ですが、店を始めてからトヨラの繋がりが拡がり、現役時代は男子校だったのに女子の後輩の皆様とも繋がったり、直近では常連の娘さんや甥っ子が現役1年生だったり現役応援団長が常連さんでその勇姿に感動させて頂いたり
豊浦高校卒業して良かったな〜と世代を超えて繋がるトヨラーの皆様に支えて頂きながら地元下関で19年商売させて頂きただただ感謝です。
歴代のアルバイトさんでも豊浦の後輩109期、111期(2人)90期の先輩の娘さんが働いて下さりとり万。の危機を救って下さいました。
大人になって結婚して子供さん連れて来てくれてほっこりさせて頂き、この子達が18歳になって親子二代でとり万。バイトしてもらえるようになるまで潰さんように頑張ろうっと励みになります。

コロナ禍で始めたTikTokでなで肩でバズり散らかしてSNS総再生数4500万再生の効果で、現役プロバスケB1茨城ロボッツの豊浦(116期)中村功平選手がなで肩動画観てくれてご来店してくれたり、なで肩動画観てくれてご来店のトヨラーの方々とも肩のご縁で繋がったり、コロナ禍で生き残りを賭けて弁当売ってた時もOBOGの皆様に助けて頂き、当時現役バスケ部だった後輩くん達がTikTok観てご来店と現役生からも応援頂きコロナ禍を生き残る事が出来ました。
中村功平選手(116期)とのツーショット


コロナ禍から始めたYouTube毎日投稿も気づけば5年が経過して、ありがたい事に収益化も達成して現在のチャンネル登録も3300人を達成しました。
YouTubeを観てご来店下さるトヨラーの皆様にも助けて頂きただただ感謝しかありません。
昨年10月には第1回とり万。チャンネルオフ会も開催して全国から15人のヘビーリスナーの皆様が集結して下さり、1番遠い方で東京からわざわざ飛行機乗ってご来店下さる方もいらっしゃり大盛会となりました。
今年の1月から始めたYouTubeライブも週一で4時間ぶち抜きで毎週生配信を続けた結果、北は北海道〜南は沖縄と全国のリスナーさんと交流を持つ事が出来て全国の飲食店経営者の方々、飲食店以外のご商売をされてらっしゃる方とも繋がれてライブを通じてご来店下さるリスナーさんも何人もいらっしゃったりと「継続は力なり」を実感する日々です。
YouTube毎日投稿も毎日投稿してると無編集でテロップも無く撮って出しの所謂ぼやき漫談を5年間続けた結果、始めた当初は10再生とかだったのが500〜1000再生されるようになったり持病の睡眠時無呼吸症候群の毎月のCPAP治療費を賄えるようになったりと「継続の複利の力」ブレイクスルーをYouTubeを通じて実感しております。
また、小学校の頃から常連さんだった女の子が豊高に入学して学生時代に小説家赤井まつりとしてデビューされ先生のベストセラー作品「暗殺者である俺のステータスが勇者よりも明らかに強いのだが」
2巻66ページになで肩の鳥系獣人族宿屋とり万。の亭主として先生のご厚意で登場させて頂く奇跡も。
今年の10月からサンライズ制作によるアニメ化も決定!


アニメ化の詳細はこちら
主役の声優さんは推しの子のアクアの声優さんと大ヒット間違い無し!下関が世界に誇るベストセラー作家赤井まつり先生の作品が世界に羽ばたきます!ワンチャン本人役で声優デビューを夢見ておりますがこの会誌投稿を書いてる時点ではオファーはまだ無し。
地元に帰って来て唐戸の地で店を構えて19年。
来年2月5日にとり万。も20歳になります。
もう駄目かと思う事も度々ありましたが、その度にとある豊浦の先輩に教えて頂いた魔法の言葉
「何とかなる」を念仏のように唱えて歯を食いしばって死に物狂いに足掻いてたら毎回何だかんだで乗り越えられて生き残り現在に至ります。
座右の銘は「何だかんだで何とかなる」になりました。
これからもっと厳しい経済状態になっていくでしょうが、その度に「何とかなる」をエンドレスリピートして乗り越えて、私が77歳を迎える年に達成する50周年を目標に今後も精進して生きたいと思います。
OB OGの皆様YouTubeチャンネル登録、グッドボタン、スーパーサンクス宜しくお願い致します笑